「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7

偶像を見て育った日本人は、くどくどと唱え、量を多く祈れば良いと思ったりする。じゅずを持ち、時間をかけて唱え、拝む姿を見聞きするので、それが祈りだと潜在意識にあるかも知れない。そして、神よ、ああしてこうして、あっちへ行ってこっちへ来て、の祈りをする。願いが聞かれないなら、違う神に移る。神を変える。欲しいのは自分に都合のよい神だ。都合の良い願いを叶えて欲しい。

 

つまりは自分中心に、都合良く人生が回って欲しい。人生途上で、主に出会ったクリスチャンも、長年培われた価値観が根深くあり、あくまでも自分のための神だ。しかし主は、私たちを愛し、慈しんで下さっているので、忍耐を持って導いて下さる。最初は、自分のためにしか祈れないし、自己中心の祈りである事も、ご存じでいて下さる。

 

とにかく、まずは祈りによって、主に向くことを喜んで下さる。そして最初の頃の、よくわからない中で祈る祈りに、よく答えて下さる事も経験する。最初は祈りもよくわからないし、誰もうまく祈れない。しかし主は、祈りの実践の中で、祈りを訓練し、学ばせて下さる。「ノー」の答えがある事も学び、時間をかけて祈り続ける祈りがある事も学んで行く。

 

そして自己中心の祈りを、祈りの中で、矯正して行って下さる事も経験して行く。段々と、御心に適った祈りが答えられる事を学んで行く。祈りとは、御心に適った願いへと軌道修正されて行くものであると。とにかく主に向き、祈って行こう。主が教え、手を取り導いて下さる。

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主の最善は何かを求めるより、自分の最善ばかりを訴えていることに気づかされる。主の御心を求めて祈ろう。ノーの答えの中にある主の御心にも気づいていける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係