「イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:38

主のための奉仕は尊いし、主の喜ばれることだ。奉仕する事自体は良いことだ。私たちも、主のために労する事は、喜びであり、恵みだ。しかしマルタは、主が飛んでしまい、恵みから出て、自分の力で労し、目の前の仕事そのものに、目と心が奪われてしまった。主を忘れるなら、何のための奉仕か、わからなくなる。形さえ整えば良しと、心の伴わない義務感だけの奉仕になる。 

 

主から目が離れると、自分中心にしか物事が見られない。すると、自分だけが忙しい目をしていると、イライラし、周囲に怒りが湧き、又、自己憐憫に陥り、何もしていない周囲を責め、裁いて行く。主から離れ、恵みから出てしまうと、私たちも同様だ。恵みの下で、御霊によって行っていないので、非常に重いつらい仕事となる。自分がつらい中、頑張って労しているので、何もしていない人を見ると腹が立ってしまう。

 

なぜ、自分ばかりとイライラして、必ずさばく。恵みの下におらず、律法の下にいる。奉仕はずっしりと重くて喜びも無い。働く前に、まずは御言葉を聞き、主と交わるなら、平安と潤いをもって、労する事ができただろう。その時、人は関係なく、自分には平安と喜びがあるので、何もしていない人を見ても、さばく事もない。生き生きと労せる。

 

しかし、まず主の御前に座するより、動き回る事の方が楽なのだ。マリヤはその良いほうを選んだのです」とあり、選択が必要。

選ばない限り、まず御前に座する事はできない。選んでいない自分に気づく事から、祝福が始まる。

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急いでいる時ほど、まず主の前に静まる大切さを失敗から学べる。主が無ければ、ただ事に仕える仕事になってしまい、今日はできても、明日はできない。第一のものを選ぼう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係