「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」ヨハネ14:27

主のよみがえりの後、弟子たちは、主が復活された事を、聞いて知ってはいたが、ユダヤ人を恐れて、戸を閉じて、引きこもっていた。しっかり鍵がかけられていた。弟子たちの心は、複雑であったろう。不安や恐れ、戸惑いや混乱、主を裏切って逃げた取り返しのつかない、責め、とがめ・・ネガティブなものが様々混じり乱れていた事だろう。

 

閉じられた部屋の閉塞感のようだ。そこに突然、戸が閉めてあったのに、主が現れて、彼らの中に立たれた。ドアノックもなく、ドアを開けようとする気配も無く、突如、目の前に来られ、そして言われた。「平安があなたがたにあるように」と。

 

弟子たちは、びっくり仰天し、動揺し、慌てふためいただろうか。その時に主は、その手とわき腹を彼らに示されたとあり、弟子たちは、主を見て喜んだと。週の初めの日の夕方とあり、まだ3日前の傷跡を見て、それこそが、自らの罪を負い。十字架で贖って下さった傷跡だった。

 

この傷こそが、「平安があなたがたにあるように」との根拠だからだ。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。主の十字架により与えられる「平安」だ。心のいやしだ。すべての罪が赦される。この平安は、何にも代えられない平安だ。

 

信仰人生での、苦しい厳しい試練の中も、心の奥に確かに存在するるぐ事のない平安だ。主の十字架によりもたらされた、「世が

えるのとは違う」「わたしの平安」、主の平安だ。

 

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主を知る以前は、心の奥に空洞があって、穴が開いていた。心は虚しく、何によっても満たされる事は無かった。そこに十字架の贖いにより、罪が赦されたゆえの、平安が臨んだ。世には決して無い、何にも代えられない、主が約束された平安だ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係