「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Ⅱテモテ4:3 

私たちの肉の性質は、自分に都合の良い事を言って欲しい。自分は正しいと言って欲しい。自分のしよとする事は、聖書にかなっていると言って欲しい。進む道が、御言葉に沿っているとの後押しが欲しい。一つ間違うと、御言葉を、自分のしたい事をするための、承認印にしてしまう。

 

「気ままな願いをもって」とあり、聖書の中から、自分に都合の良い御言葉を集めるなら、それはわがままだと言っている。聖書は、欲しい言葉を探し出す、タウンページではない。どうしても思い通りにしたいとの強い思いがあると、自分のプランを正当化する言葉が欲しい。思いが強いと、無意識に都合の悪い言葉はスルーして、欲しい言葉を探してしまう。意識していればわかるが、無意識なので気づかない。それなら、御心と反対方向へ行ってしまう。

 

「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない」との言葉があるが、御言葉が示されたと言いつつも、もしその言葉が実現しないなら、主が語られた言葉ではないと言っている。自分が取ってきた御言葉になる。

 

まず御心を求める時は、最初に自分自身を、自分の思いを委ねることが大切だ。右でも左でも、主の御心のままに進みます。御心のままでOKですと。そして祈って行く時に、主のお心がよくわかって行く。主のお心を求めていて、自分の都合を求めているのではないからだ。自分を明け渡す時に、必ず導きを与えて下さる。導きを頂かなければ、進めないのだから。必ず道を示して下さる。

 

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「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」。み言葉への態度が、助けられるように求めよう。心を助けられて、御声を素直に受け取ることができるように祈ろう。御声を聞く事こそが大きな喜びであり、心に喜びが来る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係