「『あなたを罪に定める人はなかったのですか』彼女は言った『誰もいません』・・『わたしもあなたを罪に定めない』」ヨハネ8:10

パリサイ人や律法学者たちが、姦淫の女性を主のもとに連れて来た。姦淫は死罪だ。そのため「石打ちの刑に」と訴えた。主はじっとかがんで、何かを書いておられたが、余りにも急き立てて来るので、主は彼らに「罪の無い者が、石を投げよ」と言われた。すると、石を投げる者が一人もいなかった。全員が去ってしまった。

 

つまり、彼らは、主の言葉により自分自身の内側が照らされた。自分を見て、自身に罪を認めたのだ。真実が現されようとしていた。本当の自分の姿にきちんと向き合うのか、それとも逃げるのか。彼らは、皆、逃げた。主に導かれて、自分の罪を見たのに、それに向き合おうとしなかった。しかし女性は逃げずに、そのままそこにいた。

 

さばきからも逃れようとせずに、どうなろうと主のもとにとどまった。罪を認め、身をゆだねた。その時、主から「罪に定めない」との赦しを受け取った。私たちはどうだろう。罪がわかるのは、御霊の光が臨むからだ。その時に光の方へ進む事ができるし、心を閉じる事もできる。光に向いて、突き詰めて行く事は大事だ。

 

なぜいつもこの罪を繰り返すのか、どこに弱さがあるのか、自分のどこに触れているのか、祈って行く時、必ず一つ一つ示し出し、成長へと導いて下さる。逃げるならそのままだ。光の方へ向き、光の方へ行こう。主のかたちに変えられて行く。

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見たくない自分の罪は、主が十字架で負ってくださらなければ無くならないと思う時、恵みと同時に、罪を甘く見過ごすことの恐ろしさを覚える。逃げずに向き合おう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係