「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」ヨハネ9:38

主が、一人の生まれつきの盲人の目を開くというみわざをされた。イザヤ書によると、盲人の目が開かれる事は、メシア到来のしるしだった。「そのとき、盲人の目は開かれ・・」、それゆえ、この盲人が見えるようになった事は、まさしく預言の成就だった。心開かれていたなら、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。

 

しかしパリサイ人は、主が、安息日を破ったと非難攻撃をする。その根は悪意であり、その目で、人を、物事を見るなら、すべてが攻撃材料となる。邪悪な心だ。正当な非難だと言うが、実は根にある敵意によるものだ。盲人に問いただすのだが、彼の言葉にも全く聞く耳を持たない。盲人は身に起きた事を素直に話しているにかかわらず、頭から否定してかかる。

 

注意しなければ、自分は正しいとの位置に立つ時、私たちも同じになってしまう。このような状態に陥ってしまう。そんな中、盲人の彼ははっきりと、的確に断言した「盲目であったのに、今は見える」と。誰にも否定できない事実だ。彼は、物理的に見えるだけでなく、霊の目が開かれて、神がわかるのだ。何という主のみわざだろう。

 

パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。肉の目だった。「私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。あの人はこうだと最初から決めてかかり、そういう態度である以上、どんなみわざを見ても信じる事はできない。自らの偏見、思いを捨てて、素直に主に向き合うなら、「主よ、私は信じます」に必ず導かれる。

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自分が正しいとしか見えなければ闇の中だ。学ぶことも悔い改めることもない。主の光を通して罪を知れることは感謝だ。真理は人を自由にしてくれる。闇に陥りやすいことを認めていよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係