主は、盲人をいやされた時に、「わたしはさばきのために来た。見えない者が見えるようなり、見える者が盲目となるため」と言われた。するとパリサイ人たちが「私たちも盲目なのか」と反発し、,不快感をあらわにした。主は、盲目なら罪は無かったが、「見える」と言うから「罪は残る」と言われた。
安息日に病気治療をする事は、仕事と見なされ、パリサイ人たちは、主が律法を守らないと断罪した。だから神から出たのではないと。彼らは神の言葉でなく、人の言い伝えの方を重んじた。そのため神の言葉が見えず、わからない。神の言葉に対して盲目だった。彼らが「見えない者です」と認められたなら、どんなに幸いだったろう。主の大きな恵みと祝福にあずかれたろうに。
しかし彼らは、自分たちが盲目であると決して認めなかった。そして見えると言い張った。私たちはどうだろう。見えない世界が見えるようになるためには、何が必要なのだろう。まず、自分が見えていない事を認める事だ。そのためには、へりくだらなければならず、プライドが許さない。「見えません」と、ありのまま主の前に認める時に、主が目を開いて見えるようにして下さる。
「見えない者が見えるようになり」と。主ご自身が目が開かれた彼に近づかれ「信じるか」と問われた。「その方を知りたい」と願った時に「あなたと話しているのがそれだ」とご自身を現された。彼は「信じます」と答え、霊の目が開かれる事となった。
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ありのままの自分、見えない自分を認めることは、自分を砕いてへりくだることだ。主を信じるからこそ、認めることが出来る。主への信頼が無ければ到底認められない。自分が崩壊すると思ってしまう。しかし広げられているのは、最大の愛の慈しみの御手だ。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係