「・・わたしから離れ、むなしいものに従って行って、むなしいものとなったのか」エレミヤ2:5

「わたしの民は二つの悪を~」とある。一つは「湧き水の泉であるわたしを捨てた」二つ目は「多くの水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘った」と。当時、砦は水源のある場所や地下水が湧く所に作られていた。水は非常に重要であった。日照りに備え、貯水用に、幾つもの大きな水ためが作られた。雨季の雨水を水ためにためた。

 

ところが幾ら水をためても、裂け目から水が、少しずつもれ出てしまう。壊れた水ためだ。用をなさない。水ためを作ることは、悪い事ではないが、真の湧き水である主を無視し、ないがしろにして、自分たちで、自分たちの力と方策で、水ためを作るのなら、それは悪だ。

 

「湧き水であるわたしを捨てて」、当時、民は偶像礼拝を行っていた。火の中を通して赤ん坊を献げるという酷いものだった。今、私たちは、金や木の像を拝む事はしない。しかし目に見えない心の偶像はどうだろう。主以外のものが大切になり、主を捨てるなら、壊れた水ためから飲む事になると。それは少しずつもれ出て、たまってはいない。

 

たまらないので、心は決して満足する事が無い。何によっても、満たされることはない。主以外のものに、心を寄せているので、心が何か虚しく、満たされないのではないか。主は湧き水だ。外側は関無く、内側から、喜びや平安が湧き出て来る。湧き水なの、決して尽きる事がない。虚しいものを追いかけているなら、今一度湧き水である主に、立ち返ろう。主と交わろう。

 

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虚しいものに従うのは、壊れた水ために水を入れる事だと。幾ら水を入れても、こぼれ落ちてしまう。虚しいものに従って行くなら、自分も虚しい者になると言っている。今、主以上に大事にしているものが無いかどうか、御霊に探って頂こう。そして明け渡そう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係