「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20

「人々はやみを愛した」とあり、人の古い性質は、罪を憎むのではなく、罪を愛するとある。したくないけれど、罪を犯すのではなく、したくて罪を犯している。誘惑に乗ってしまうのは、誘惑を拒絶するのでなく、本当はその中にいたい。誘惑は甘く、心地良い。苦くなどない。もし罪が苦ければ、誰もこれほどまでに、罪に誘われない。

 

そこから出たくない。自分の内側には、やみを愛する罪の性質がある。「できない」のでなく「したくない」と認める事から祝福が始まる。その時、光の中だ。私たちは、自分はわかっていると思い、光を拒んでいる。わかっていない事、見えない事を認めない。しかし光を拒むなら、暗闇の中で見えるのは自分だけだ。自己中心の世界の中で、自分は正しく、相手が、状況が悪いとしか見えない。

 

真理を行うとは、自分の罪を、自分の姿をありのまま認める事だ。やみを愛する者であり、自分を正当化する者であることを認めて行く。その時、その人は光の中なので、神が見える。神が見えるので、更に自分のありのままの姿がはっきりと見えて、悔い改める事ができる。

 

心のやみを照らし出すところの、御霊の光を決して拒まず、向き合う。いつも同じ罪を犯す原因はどこにあるのか、どの部分の弱

さなのか、自分のどこに問題があるのか、光に照らし出されて行く時に、成長して行ける。

 

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罪の性質は「~出来ない」でなく「~したくない」だと言われている。「愛せない」でなく「愛したくない」だと。ごまかせずに、自分の姿がはっきり見える。それを認める時、いつも前に進んで行ける。主は次の展開を与え、一歩一歩進めて、成長へと導いて下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係