「イスラエルよ。もし帰るのならー主の御告げーわたしのところに帰って来い・・ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」エレミヤ4:1

忌むべき物を主の前から取り除き、いばらの中に種を蒔かず、耕地を開拓せよ、そして心の包皮を取り除けと言っている。種を蒔く時に、いばらがはびこっている地に蒔く人はいない。まずいばらを取り除いて、よく耕して種を蒔く。いばらは、種蒔きのたとえで「この世の思い煩いや富への惑わし」とある。

 

この世の様々な心配、思い煩いは、いばらのごとく、強い力でぐんぐんはびこり、御言葉をふさぎ、信仰をふさいでしまう。実を結ばせない。そして古い性質には、主より、目に見える金銭に頼る心が根深くある。主が、絶対に必要を与えて下さるのに、金銭が無いと不安で不安でたまらない。金銭が生活を保障してくれ、楽しみを与え、夢を叶えてくれると勘違いしてしまう。

 

金銭が神になり偶像になっていて、気づかない。まず、いばらを除けと。御言葉が心に落ちても、それにまさる勢いで、いばらがおおいふさぐ。それなら信仰人生に、実を結ぶ事が無い。「心の包皮」は当時男子は皆、割礼を受けたが、主に従うなら割礼は意味があるが、外側だけの割礼なら何の意味もない。実際には、心は主から離れているのに、宗教的形だけ繕い、形骸化している。

 

そしてそこには、頑なな心がある、主は、いばらや包皮に気づかせて下さる。主から心が離れている事に気づかせて下さる。それを認める時、悔い改めたり、除く事ができる。それらを除き、生き生きとした喜び溢れる歩みへと導き入れて下さる。

------------

主を悲しませている様々な問題を、御霊を通して日々気づかされる。御霊の促しに従って悔い改めを祈ろう。心はどこに行ってるのか、帰って来いと言われる主がおられることは、何と有り難いことか。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係