「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」 詩篇106:13

主は、私たちの「求め」を喜んで下さる。「求めなさい」と言われ、「そうすれば受けるのです」と。そして与えられた時に「喜びが満ち満ちる」と。沢山のものを与えられているが、祈って答えられると、それは別物で、格別に嬉しい。天地を支配される主の主が、私の祈りに答えて下さったという事だからだ。喜びが満ちる。

 

個人的に主との交わりが深められて行き、主を知って行く。だから「求めよ」と。しかしイスラエルは「激しい欲望にかられて、神を試みた」とある。民は、欲望にかられて、欲望のままに、わがまま求めた。主のお心や、主の栄光は無く、ただただ欲にかられた。すると主はそのわがままに願うところのものを与えられたのだ。

 

どうしてもと、何があっても欲求するものを、主はある時、与えられる。しかし願うところを得たが、心は満たされず、更に虚しくなった。「神は欲しがるものを与えられたが、彼らの心を空虚にされた」と。本当に自分が願っていたものでは無かったと気づく。与えられて、心が満ち満ちるのと何という差だろう。

 

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの願いをかなえてくださる」とある。肉の欲望にかられて求めるのでなく、まず主を求めて行く時に、「あなたの願いをかなえてくださる」と。主を求めて行く時に、主の願いと自分の願いが合致して行く。そしてその願いは叶えられる。どんなに嬉しい事だろう。喜びが満ち満ちる。

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与えられたものではなく、与え主なる主を喜ぼう。御心にかなって渡された祈りの答えは、何よりも嬉しく主への感謝に満ち溢れる。そしてノーの答えも同じく感謝して受けとりたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係