「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました」マタイ2:2

ユダヤの人々は、旧約の預言から、救い主であるメシヤ到来を知っていて、待ち望んで来た。長い間、どんなにか待ちこがれていたはずだ。星に導かれた東方の博士たちが、遠路を救い主を求めてエルサレムに着いた。ユダヤ人の王が生まれた方はどこか、と問うた時、ヘロデ王は恐れ惑ったとある。ヘロデが恐れるのは十分理解できる。新しい王が来たなら、自分の地位は危うくなる。

 

そのために身内まで殺したヘロデだ。ヘロデはわかるが、エルサレム中の人々も王と同様に恐れたとある。なぜ王でもない、ユダヤの人々が恐れ惑うのか、不可解に思える。背景に当時はローマ帝国が大帝国となり、地中海一帯を支配していた。ユダヤもローマに占領されていたが、周辺一帯それなりの生活が保たれていた。

 

自分の生活も安全も、まがりなりにも保たれている以上、それが乱されるのは嫌なのだ。今のままで良い。余計な事には拒否反応だ。私たちもそうかも知れない。肉は変わりたくなどない。何が正しくて真理で畏れなければならないかより、何が楽で、得で、まさつや犠牲が少ないかに向かう。

 

とにかく安楽、問題無しの方へ流されてしまう。余計な事に心乱されたくない。肉は、主のお心でなく自分の利得を計算してしまう。今、選択に迫られていたら、主に向き、主の御心が一番大切である事に立ち返ろう。御霊に導かれる時、損になっても、御心を行ってゆける。そしてそこに真の喜びがある。

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主を心に迎え入れ、王座を主に渡すとどうなるのかと、恐れが伴うが、主で心か満たされ御霊に導かれて歩みたい。御心の真ん中が何より幸いな場所だ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係