「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」Ⅰヨハネ3:16

兄弟のために命を捨てるとは、字のごとく死ぬ事ではなく、相手にとって何が最善であるのかを考え、そのために、自分にできる事で犠牲を払う事だ。そして「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」とあり、神の命令を守る事は、愛して行く事は、決して重荷とはならないと。

 

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。自分には助ける力が与えられているのに、愛の行いをしないなら、そこに神の愛はとどまっていないと言っている。だが真実をもって愛の行いをするなら、自らが主のもとにある事を知り、御前に心を安らかにされる。

 

そして、心平安にされ、今度は自分が主に願うものをいただけると。「求めるものは何でも神からいただくことができます」。なぜなら主の命令を守り、主に喜ばれる事を行っているからだと。力以上の事をする必要はないし、できない。そこに無理がかかると、疲れて重荷となってしまう。

 

別の個所で「この女は、自分にできることをしたのです」との言葉があり、自分に出来る事で、犠牲を払えばよい。労力、富、時、与える事のできるものが、与えられている事が恵みだ。主が任せて下さっているものの中から、愛の献げものを導かれているだろうか。

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相手にとって最善な事は何か、出来る事はないかと心を寄せる事から始めたい。悪気は全く無いが、関心も無いという日常ではないだろうか。心を向け祈っていこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係