「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です」マルコ16:6

主が葬られた墓に、女たちが香料を持って来た。すると墓に立てかけられた大きな石が転がしてあり、墓の中には、主のからだは無かった。途方に暮れている女たちに、御使いが現れ、主のよみがえりを告げた。「ここにはおられません」と。「ここ」とは、墓の中だ。死人を葬る場所だ。主は、死人の中にはおられないと。死から、よみがえられたからだ。

 

私たちは「生きている方を死人の中に捜し」ていないだろうか。あたかも、主に何の力も無いかのように、死んだ人であるかのように、主を横に追いやり、自分が、自分が、と自分の力で信仰生活をやりくりしていないだろうか。決してうまく行くことがない。

 

すべてが自分の肩にかかるので、重く苦しいばかりだ。問題、焦り、いら立ち、思い煩い、不安で、疲れ果ててしまう。まるで主は死んでおられるかのようだ。自分が、何もかもやり遂げなければならないかのように。墓とは、人が主イエスの遺体を葬った所だ。人が、主に対して、して差し上げた場所だ。しかし、その所から、よみがえられた。

 

もう「ここ」にはおられない。よみがえりとは、主が全主権を握られ、主の支配によって、事がなされる場所だ。今、まさに生きておられるので、私たちが主のためにでなく、主が、私たちのためにわざをして下さっている。生きて働いておられるのだから。よみがえりの主のいのちは、今日の信仰生活に生き生きと溢れ流れている。そこには喜びと平安が満ちている。

 

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すぐに律法に陥ってしまい、~ねばならないになると、疲れてしまう。また懸命に頑張って出来ても、自分に栄光を帰してしまう。自分がしたのだから。一つずつ祈って、主に信頼し、主と共に歩もう。そこに潤いと喜びが来て、更に主との信頼関係が深められて行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係