「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2

私たちは、「神を信じている」と口では言い、そう思っているつもりなのだが、どうだろう。例えば「あなたは高価で尊い、あなたを愛している」と言われ、「あなたは高価だ」「価値がある」と言われても、素直に受け取ることができないのが本音だろうか。「信じきれたらどんなに良いだろう」「そうは言われても」「他の人にはそうだろうけれど、とても自分が高価だとは思えない」。

 

そのため心満たされず、心寂しく、喜びが無い。叉、「栄光の富をもって、あなたの必要をすべて満たす」と言われても、「現実的にどこから来る?」「無理としか思えない」「どう考えても不可能に思える」、そのため不安と恐れと思い煩いでいっぱいだ。なぜ、聞いたみことばが信じられないのだろう。

 

それは、みことばを聞いても、心にしっかり自分の肉の思いがあり、自分の方法があるからだ。今まで根深く培われた自分の価値観があり、自分のやり方があって、常にそっちの方を選択してしまっている。そのため実は、主が語って下さるみことばを受け入れず、退けてしまっている。みことばが、信仰によって結びつけられていないからだと。

 

聞いたみことばを否定したり、スルーしてしまう、肉の思いに従っていないだろうか。みことばを聞いているつもりなのだが、実は捨ててしまっている。それに気つかないでいる。その結果、みことばを聞いているのに、自分は全く変わらない事になる。みことばを聞く時に、同時にサタンが働き、肉の思いを持って来る。自らはどうだろう。どのように御言葉を聞いているだろう。気づきから祝福が始まる。

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御言葉を信じ選択しよう。小さな日常の問題や悲しみも目の前のことだけを見せてくるサタンが背後にいる。その場限りの感情や価値観ではなく御言葉に立とう。焦点をあわそう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係