「ペテロは言った『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません』弟子たちはみなそう言った」マタイ26:35

ペテロは、主が捕らえられた時に、主を裏切ってしまった。以前に主から、鶏が二度鳴く前に、三度主を知らないと言うと言われていた。鶏の鳴き声を聞いた時、その言葉に思い至り、主を否んだ罪を自覚した。心底悔いて、男泣きに大泣きした。私たちは失敗してしまう。人間の弱さのゆえに、どうしても失敗する。失敗しない人は、一人もいない。

 

しかしそこで、罪を認め、悔い改めるなら、大きく成長して行く。それで人生が終わったのではない。主のあわれみは尽きず、主は豊かに赦し、なおも、その事をも益として下さる。失敗を通して、私たちはへりくだらせられる。へりくだらざるを得ない。高ぶっている事ができない。自らの愚かさが恥ずかしく、ただただへりくだるのみだ。

 

ペテロは自分の弱さを知らなかった。主に、命をかけて従って行けると自信満々だった。そう思っていた。そのところを、主は取り扱われた。ペテロの自分の思いであり、自分の力だった。ペテロはそこを砕かれた。自信は砕け散った。そして砕かれたペテロが、その先で素晴らしく用いられた。

 

ペテロは聖霊に満たされて、今度は自分の力でなく、聖霊の力によって、主の大きな働きを成し遂げて行った。ペテロは全く変えられた。私たちも失敗する。しかしそこで悔い改めるなら、その失敗は私たちを謙遜にする。失敗が問題なのでなく、その後、どのように生きて行くかが問題だ。主は罪を赦し、再び立ち直らせて、立ち上がらせて下さる。赦されて赦されて、失敗から学んで行く。

 

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どうしても失敗してしまうが、悔い改めにより、主は赦して下さり、赦し続けて下さる。その赦しを受け取る事により、主の愛に触れ、更に主の愛を知って行く。そして自分の力でなく、主に拠り頼む事を身を持って学ばされて行く。何というあわれみだろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係