「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」マタイ26:38

ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても、自分だけは決して裏切らないと豪語した。「私は」どこまでもついて行く。「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。「私は」何があっても大丈夫。ペテロは自分に自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。

 

「シモン、眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、ゲッセマネで、主が祈りの大変な苦闘にある中、眠り込んでいた。主は、ご自分の姿をありのまま弟子たちにさらけ出された。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と、ここを離れないで目をさましているようにと、弟子たちが一緒に祈る事を願われた。 ご自分の弱さを認められ、御父に拠りすがり、祈りに持って行かれた。弱さを認めた祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ行くのです」と立ち上がられた。十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペテロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。弱いからこそ祈るのだが、弱さの自覚がないため、祈りが無かった。

 

主は弱さを自覚され、切に御父に拠り頼み、祈られた。眠気が問題なのでなく、自らの弱さを知らない事が問題であり、致命傷だった。誰しも自分の弱さは認めたくないものだ。しかし、弱いからこそ祈ることができ、頼ることができる。そしてその祈りは豊かに答えられる。

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失敗を通して、何度も無力を知らされる。主を頼らざるを得ないようにされるのは感謝だ。無限の主の恵みの賜物を味わえる。今週も主に頼り歩もう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係