「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」マルコ14:30

ペテロは、「全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずかない」と豪語した。「私は」ついて行く。一緒に死ぬ事になっても、「私は」あなたを知らないなどと決して言わない。「私は」大丈夫との自負があった。ペテロは自信満々であった。「自分は」他の者たちとは違う、そこに高ぶりが潜んでいた。

 

そしてペテロだけでなく、他の弟子たちも皆、そう言った。彼らの気持ちではあった。しかしそのしばらく後、主が捕らえられた時「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」。弟子たちは皆、逃げたのだった。自分は違うと豪語していたペテロは、呪いをかけて誓ってまで、主を否んだ。

 

ペテロは自分の弱さを知らず、本当の姿が見えていなかった。同様に私たちも、ペテロの姿は見ることができるが、自分の本当の姿は見えていないかもしれない。主はペテロを取り扱われた。ペテロを「岩」とされる過程だ。将来の諸教会のリーダーとして、見据えておられた。苦しい試みの中で、「信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」との主の執り成しがあり、ペテロは主により守られた。

 

私たちも、主から取り扱いを受ける。試練は苦しく、厳しいが、その中で自らの弱さを知る。順境の中では決して知る事のない弱さだ。自分で主に従えない事を知り、砕かれ、そして主に自分を委ね、主に拠り頼む者とされる。変えられて行く。その中も、主の愛は決して変わらず、手厚いケアがあり、そこで新たに主を知って行く。信仰が培われ、成長して行ける。

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思っているような自分ではなかったと、様々な経験を通して認めさせられる。そして主はこんな自分のために祈っていてくださる。取り扱いは恵みだ。いつも主のご臨在を覚えて生きる者にされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係