「しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである」出エジプト8:19

エジプトで苦しむ民の叫びを聞き、主は指導者モーセを遣わし、民の救出を計画された。主は次々と奇跡を起こされ、モーセが、そのつどパロに民を去らせるよう迫った。主の超自然の奇跡により、厳しい苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した」「私と私の民は悪者だ」「私の罪を赦してくれ」「私のために祈ってくれ」と言う。

 

一見悔い改めのような言葉を発するが、その災いがおさまり、ひと息つくや、即、再び強情な姿に戻る。これは、それらしき言葉を口にするが、口先だけで、心では思ってはいない。真の悔い改めなら、行動が変わり、必ず実を結ぶ。主は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行われる。しかし頑ななパロにとっては、様々なしるしが、主を知る事にはならず、脅しみたいなものであった。

 

だからその脅しが無くなれば、再び強情で頑なになった。私たちはどうだろう。もし高慢になっていたなら、主はへりくだるようにと、苦しみを送られる。これは主の愛であり、放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しと取るなら、余りの苦痛に悔い改め、神妙になるのだが、その苦しみが去ると、元に戻る。何も変わらない。

 

実は自分が悪いとは思っていない。痛みが不都合なだけだ。叉、見映えが悪いだけだ。真の悔い改めに至らず、実を結ぶ事がない。しかし御霊に導かれた悔い改めは必ず結実する。砕かれた、悔いた心を祝福し、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。

------------

良い事なら何でもしてもらいたい、そして願いが叶えば嬉しいというだけなら、砕かれる事もなく、いずれ神でなくてもよくなってしまう。砕かれ赦されて歩もう。神を喜びとして歩もう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係