「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」マタイ6:23

ここで、からだのあかりは目であり、目が健全なら身体全体が明るいと言っている。目から光が取り込まれるので、目が光の入る窓口になる。その目が健全なら、十分に光が入るので、全身が明るく心も明るい事になる。しかし目が悪いと、そこに光があっても、身体に取り込めない。だから身体は暗く、心も暗い事になる。

 

窓から外の光が入らない状態だ。光が無いのでなく、光は十分あり、輝いている。光の問題ではなく、目の問題だ。見えないので、そこに光がある事がわからない。太陽が光輝く中で、目を閉じた状態だ。真っ暗闇だ。だから、暗闇にならないようにせよと。

 

光は主だ。主は常に輝いておられる。健全な目とは「単一の目」との意味で、光である主だけを見続ける目だ。だが、主に対して目を閉じ、主ではなく、名誉、地位、富・・この世のものに、又、心配事や思い煩いに、叉、偏見、思い込み、独りよがり、叉、しい憎しみや妬み、怒りに目が釘付けならどうだろう。それは目を閉じた状態になり、光が入らない。心は真っ暗になる。

 

見ているものを「よく注意せよ」と。赤い警告ランプが、目が悪く、青に見えていたらどうだろう。生死に関わってくる。主を見つめているなら、光が目の窓から豊かに入り、自分自身はすみずみまで輝く。そして、それは自分だけでなく、周囲の人々をも照らして行く。

 

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目が身体への窓口になる。目が偏見や自分の思いが強いと身体に入るものが歪んでしまう。又、自我に触れる痛い事に、目を閉じ、シャットアウトするなら、身体は真っ暗なままだ。自分の目はどうだろう。御霊が気づかせ、御心へと、成長へと導いて下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係