「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」マルコ10:45

ヤコブとヨハネは、主に、御国で右大臣、左大臣の地位を求めた。又、その母が彼らのために、主のもとに来てひれ伏して願った所もある。親子で出世のために高い地位を欲しがった。そしてこれを聞いた他の十人の弟子がひどく腹を立てた。自分たちが、出し抜かれた事に悔しくて怒った。つまり彼らも同じ思いであった。

 

それは主の十字架を直前に控えていた時だった。叉、弟子たちは、誰が一番偉いかと論じ合っていた。主が十字架に向かう、まさにその時にも、弟子たちの心は「一番は」「自分が、自分が」でいっぱいだった。弟子たちだけでなく、この誘惑は誰にでもある。自分が上に立ちたい、自分の思い通りに人を動かしたい、自己中心な欲求がある。

 

これは相手を支配する事になる。又、肉の性質には「人から評価されたい、認められたい、賞賛されたい、人に優っていたい」との誘惑がある。それが高じると、周囲がライバルになり、張り合いが生まれる。そこに愛は無い。「自分が、自分が」の世界だ。そのため主は「先に立ちたいと思うなら、仕える者になれ」と言われた。

 

そして「互いに愛し合え」と。主、自らが仕える者となられ、ご自分を無にして、十字架の死にまで従順に従い、私たちの救いの道を開かれた。それによって私たちに愛がわかった。主のお心に従って行けるように、御霊は助けて下さる。まず、自分の内にあるものに気づかされ、認めて、主のもとに祈りに持って行こう。

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仕える人になりなさいと主は言われる。十字架に向かう主ご自身を思い、人間関係のストレスがどこから来るか、心の内を吟味してみたい。肉の弱さを祈っていこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係