御言葉に従おうとする時に、必ずあらがって来るものがある。経験するだろうか。この世の価値観、常識、習慣、肉の思いだ。一見、妥当に思える。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自分の力で懸命に頑張るのが善であり、美徳だ。今までも真面目に生きて来たが、救われてまことの神を知るや、更に真面目に、更に忠実でなければと思う。
信仰生活がつらい修業のように思ってしまう。律法に従うのは苦しいが、しかし修業とは苦しいものであり、納得してしまう。特に日本人の気質に合致する。これらは世の価値観から来ている。しかし、真理と正反対の方向に向かっている。それは神から出ていない。ここでは割礼の事で問題となっている。
ユダヤ人の慣習である割礼を受け入れて、問題を起こさないようにと。何かをする事によって、神に、人に認められよう、受け入れられようとする事は、恵みではない。それはキリストから離れ、恵みから落ちてしまっていると言っている。信仰生活は、神に受け入れてもらうがための苦しい修業でない。
すでに神に受け入れられ、完全な愛を受けているゆえに、喜んで、感謝して自由に神に従って行くものだ。「ねばならない」義務ではなく、「愛によって働く信仰」の愛が動機であり、自発的な自由意志で主に応答し、従って行くものだ。そこには苦しみでなく、喜びと平安、安堵がある。主を愛する愛がある。
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「ねばならない」の下にいると、喜びと平安が無く、不満と煩いでいっぱいになる。生活が重荷で、要求ばかりされているように感じる。しかし主を仰ぐ時、安堵が来る。自分の力で行うのではないからだ。そこには不満でなく、御霊による喜びがある。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係