「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでい なら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Ⅰヨハネ1:7

ある人が失敗をしてしまった。不注意によるものだと思いたいが、そうでなく、自分の根にある欲によるものだった。主は赦して下さる事を知っているので、悔い改めるのだが、何か心が暗く、重かった。赦されるのはよくわかるのだが、自己嫌悪に陥るし、不安や恐れもあり、もやもやとしていた。

 

心が重いので、主の御前に行き、ありのままを話して祈った。自分の根にある欲が問題である事を見せられ、今一度、明け渡した。そして今後の信仰生活で守られるように祈った。その後、丁度、日々のデボーションで読んでいる箇所を読み進めた時に、「主の御告げーイスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない・・わたしが赦すからだ」が心にズシンと語られ、響いた。

 

赦された事の確信が臨んだ。心が平安と喜びに満ちた。そして日々に真剣に御霊に拠り頼んで行くようにされた。いつも教えられているように、失敗から学ぶ事が大切で、次に繋げて行くようにと。主の深いあわれみと恵みにあずかった。ある人も、大きな失敗をしてしまった。取り返しがつかず、後悔の念でいっぱいだった。自分を責め、罪責感で苦しい日々であった。

 

しかしそこから救ってくれたのが御言葉だった。祈りに祈っていた中、「子よ。あなたの罪は赦されました」との御言葉が臨み、心に響いて来て、心底救われた。新しい力が与えられた。犯した罪を主の御前で認める事が、光の中を歩む事だ。その罪は十字架の血潮により赦される。

 

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信仰人生でどうしても失敗してしまう。弱さを持った人間なので、過失を犯してしまう。しかしそれで終わりでなく、そこから学べと言われる。その失敗は、更に大きな失敗から、守られるためだったかも知れない。そして赦しを受け取る度に、更に主の愛を知る。、

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係