「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2

ある人がダイエット中で、ケーキ店に近づいた時に、「主よ、もしケーキを買う事が御心でなければ、駐車場が空いていませんように」と祈った。すると駐車場は空いていた。笑い話みたいだが、私たちも同じような事をしているかも知れない。主が見られるのは動機だ。動機はどうなのだろう。

 

主よ、御心が成りますようにと祈るのだが、実は自分のしたい事は決まっていて、私の心が成りますようにだろうか。主からの承認印が欲しいのだろうか。御言葉を通して導きを、と祈るのだが、もしすでに決めているなら、自分の計画に合わない御言葉は無意識にも排除してしまう。

 

そして自分に都合の良い御言葉しか目に入らない。自分は決してそんな事はしない、偏見無しに御言葉を聞いていると思うのだが、無意識にそうしてしまっていて、気づかない。時々、御言葉を与えられたと思うが、もしその御言葉が実現しなければ、それは神から語られたものではないとある。

 

自分が取って来た言葉だと。余りにも思いが強いと、間違ってしまう。間違いに進まないためには、自分の計画を一旦、主に委ねる事だ。主に明け渡すように言っている。「しようとする事を主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は揺るがない」。

 

自分の手から離れたその計画が、もし御心で無ければ、返って来ない。それはその方がよいのではないだろうか。しかし御心なら返って来て、更に揺るぎないものとされる。そして主により成就される。

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御心を求める時に、自分の強い思いがあると、御言葉もそれに合わせて取ってしまう。間違った方向へ行かないためにも、一旦自分をゆだねる事が大切だ。右でも左でも御心の通りにと、と明け渡す時、御心がわかる事が往々にしてある。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係