「ダビデは自分の衣をつかんで裂いた・・彼らはサウルのため、その子ヨナタンのため・・いたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した。彼らが剣の前に倒れたからである」Ⅱサムエル1:11

傷つけられた相手を赦せない経験をした事があるだろうか。怒りと憎しみ、恨みでがんじがらめだ。憎む相手がいるなら、苦しく、どんなに楽しい時も、ふと心に暗い影を落とす。放免される事がない。心が囚われ、牢獄の中だ。しかしダビデはどうだったのだろう。

 

サウル王に殺意を持って絶えず付け回された。サウルに忠実に仕えて来たのであって、良い部下であり、何も悪い事をしていない。だのに、ずっと狙われた。本気で殺害しようとされ、槍を投げつけられ、突き刺されそうになった。王であり、いつでも軍勢を招集できる相手だ。野山を逃げ回り、常に死と隣り合わせで、不安と恐怖はどれほどだったろう。

 

サウルを打つ好機があったにかかわらず、神に選ばれ、油注がれた王に手を下す事などできないと。サウルからの理不尽な攻撃に会ったにかかわらず、ダビデは驚くべき事に、サウルを憎んでいない。復心はおろか、サウルの死を心から悼んでいる。どうしてそんな心持ちでおれたのか。ダビデは、主に自分自身も、何もかも委ねきっていた。すべての信頼を主に寄せていた。

 

そして恐怖、不安、思い煩い、嘆きも、怒りも、苦しみ、悲しみ、あらゆる思い、感情を主に持って行った。そこで主と交わり、主に受け止めて頂いたので、心が守られた。ここが秘訣だ。ダビデのごとく、ことごとく主に持って行き、引き受けて頂こう。どんな中であっても、心は守られる。

 

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ダビデはずっとサウルに追われ、命を狙われた。死と隣り合わせの日だった。しかしサウルに反撃、仕返しをしなかった。そんな主に委ねたダビデを、主ご自身が守られた。自分で守るのでなく、主に守って頂けたらどんなに幸いだろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係