「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27

主は、「わたしの平安」を与えると言われている。それは、世が与える平安とは違うと。世の平安は、平穏無事が善で、問題が無い事による平安だ。そのため偶像に祈る時に、「家内安全」「商売繁盛」「無病息災」「五穀豊穣」だ。病気やけがが無い事、商売は繁盛で、金銭面で満たされている事が平安だ。

 

それらからそれる時、不幸という事になる。「商売不振」「倒産」「リストラ」「経済的苦境」「不作」はあってはならない事だ。それらが続くと、何かのたたりと、お払いを勧められる。しかしクリスチャンはどうだろう。根深く培われた価値観はどうだろう。受験合格は善で、不合格は悪だろうか。

 

合格は祝福されていて、不合格は祝福されていないのだろうか。しばしば逆境に陥った時に、気持ちは沈んで、つらくなり、喜びも平安も失せてしまう。それは、祝福されていないと思ってしまうからだろうか。ここが要警戒だ。順境が善で、逆境は悪との価値観が無いだろうか。

 

しばしば不思議を経験する。周囲、負の状況に取り囲まれる中で、主と交わり、祈り、御声を聞いて行く時に、一つ一つと明け渡し、委ねて行く中で、状況は厳しく、何も変わらないのに、心が平安にされる。何だか心が暖かくなり、大丈夫だと思える。

 

外側の状況に関係無く「主の平安」を経験する。そして恐れが消える。主と交わろう。ことごとく気持ちも感情も思いも告げよう。心を変えられる。

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恐怖と支配されるのは主から目がそれた時だ。その時は恐ろしい闇を経験するが、主と共にあると状況は嵐でも心の底は静かに平安だ。主を通らずに私たちに届くものは何もないと支えられる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係