「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自身を弟子たちに現された」ヨハネ21:1

主が、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます」と言われた時に、ペテロは「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、そう言った。しかし主が捕らえられた時に、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

 

そしてペテロは、三度主を否んでしまい、呪いをかけて誓ってまで否んだ。主を裏切ってしまったのだ。だがその少し前に、彼らの間で、「この中でだれが一番偉いだろうかと議論していた」とあり、彼らの求めていたものが、主のお心と全くかけ離れていた。自分の力で、肉の求めで、信仰生活を送っていた。

 

死んでも従うという言葉も、自分の思いと自分の力によるものだった。そのため、もろくも砕け散ってしまった。しかし、主は、信仰がなくならないように、あなたのために祈ったと言われ、主の祈りと主の支えの御手があった。これがすべてであった。よみがえられた主は、ガリラヤで主の方から、ペテロに、弟子たちにご自身を現された。

 

そしてペテロの信仰を回復させられた。自らの力は無力だ。自分で立ち直る事もできない。私たちのためにも、主は祈って下さっている。エマオ途上の失望落胆した二人の弟子たちに、主の方から近づかれて心を燃やし、再び立たせて下さったように、あなたのかたわにも、今、主がおられる。その主が、失望を希望と期待へと変えて下さる。

 

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自信満々だったペテロは、その肉の自信をもろくも砕かれた。将来のリーダーとして見据えておられ、砕き、練り、整えられた。砕きは痛くつらいが、子であり感謝だ。放っておかれる方が私生児だと。今年も、主に焦点を当て、砕きも受け止めて行けるよう祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係