「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人と ともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」イザヤ57:15

謙遜とは、本当は自分には能力があり、力があるが、それを決して人に見せびらかさない、という事ではない。本音で自分は無力だと思っている事だ。取税人は、真に自分の罪深さがわかっていた。そのため、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばなかった。ただただ、神を仰ぎ、赦しを求めた。神の前の自分しか無かった。そして、彼は罪赦された。

 

モーセは40才の時に、自分の力で、同胞を救うために立ち上がった。しかし、失敗し、荒野に逃れ、羊飼いとして40年の歳月を過ごした。その後、民の出エジプトのために召し出された。40年前と違い、老人になり、かつての栄光も、栄華も、人脈も、影響力も無く、真に自らの無力を思い知った。

 

そのモーセは「私はいったい何者なのでしょう」と尻込みした。しかし神に説得され、押し出された。今のモーセがふさわしかった。主の一番弟子であったペテロは、いつでも前面に出て、時に調子に乗り、出しゃばってしまう、大変な自信家であった。しかし、目の前で大漁の奇跡を見た時に、「わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者」とへりくだった。

 

そして、主を3度否んだ後、大泣きして悔い改め、自らの徹底無力を知った。心の貧しい者は幸い、自分の心底無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな者だ。自分を誇らず、自分に頼らず、頼れず、主に拠り頼み、拠りすがって行くからだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。

 

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砕かれる事は、非常に痛いが、砕かれなければ、神の事はわからない。頭でしかわからなかった事が、砕かれて、わかって行く。へりくだらされ、砕かれて、主に拠り頼み、生かされて行く。砕きは痛いが、大きな恵みだ。主を真に経験して行ける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係