「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」マルコ8:25

ベッサイダで、人々が盲人を連れて来て、主に触って下さるよう願った。主は盲人の両眼につばをつけ、両手を彼に当てられた。「何か見えるか」と問われると、彼は「人が見え、木のようだが、歩いているのが見える」と言った。見えるが鮮明ではない。人が、木のようにぼんやりしていた。見えつつあるが、まだ十分でなかった。

 

そこで、主がもう一度両手を彼の両眼に当てられた。彼が見つめているとすっかり直り、はっきり見えるようになった。いやされた。主に直接触れられた時に、ぼんやり見えるようになり、彼がなおも「見つめて」いた時に、「はっきり」見えるようになった。私たちはどうだろう。主をじっと見ているだろうか。

 

忙しくて、そんな時間など無いだろうか。主が、何だかぼんやりしているのは、そのためだろうか。デボーションも、なすべき事が気になり、形ばかりになり、心が立ってしまっているだろうか。主は彼の目を開かれたように、私たちのぼやっ~として見えない心の目も開いて下さる。

 

ぼんやりしていたのが、御言葉により少しずつはっきりとするようにされる。「彼が見つめていると」のごとく、彼は、ぼんやりした中も、失望せず見続けた。今、まだよく見えなくても、御声に耳を傾け続けよう。時をかけつつ、主は必ず少しずつはっきり見えるようにして下さる。なすべき事は主を見つめ続ける事だ。

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暗闇に生きていた者が主を信じ光の中に生かされていく。ここまで手を引いてくださった主に感謝だ。必ず主は導き続けてくださる。

主から目を離さず見つめ続けていよう。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係