「しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ローマ8:13

新生して、新しい性質を持つ私たちは、主に喜ばれるように歩みたいと願う。「恐れないでただ信じていなさい」と言われるが、どうしても主の約束を信じる事の出来ない自分がいる。目の前の状況に圧倒されて、目に見える所に捉われて、主が全能であり、不可能が一つもない事を信じる事ができない。

 

不信仰を恥じて、信じようとするのだが、どうしても信じる事ができない。叉、嫌いな相手を「嫌ってはいけない」「愛さなければ」と思う。裁いたり、憎むと、すぐに平安が失せる。だから余計に愛さなくてはと頑張る。だが、幾ら頑張っても、嫌いな相手を愛せない。何とか愛さなければと思うのだが、そうしていると、むしろますます嫌いになるばかりだ。そして平安は無い。

 

そんな中で、自分の力で頑張っている事に気づかせられる。気づくのだが、また肉の力で頑張ってしまう。肉はどこまでも根深く強い。何度も繰り返す。自分の力でやれば、やるほど失敗する。やがてもう疲れ果ててしまう。そんな私たちに、主は「疲れた人は、わたしのところに来よ」と。「わたしが休ませるから」と。

 

クタクタのヨレヨレになって、主のもとに行き、「信じる事ができません」「愛せません」とギブアップし、重荷を下ろす。すると不思議だが、信じる事ができて、愛することができるようにされる。律法の苦しみから、恵みの世界に入れられるからだ。自力でなく御霊の支配の中に置かれる。すると自分は全く頑張らないのに、御霊の力によって、事が成し遂げられて行く。私たちは御霊の支配の中にいる。

 

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本当に不思議でならない。神が働かれる時、するするとひとりでに道が開かれ、物事が成し遂げられて行く。いつも経験するが、自分の思いと力に気づかせられ、無力を認めて、明け渡す時に事が動いて行く。委ねられるよう祈って行きたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係