「あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように」申命記8:13

 モーセに導かれたイスラエルの民は、出エジプトを果たした。苦しい荒野を経て、約束の地カナンを目指した。その約束の地に入ってしまえば、信仰はもう必要無いのかというと、決してそうではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」と。

 

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通っていた。どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、主の恵みをもぎ取ろうとしている自分の姿に、愕然とし、悔いくずおれた。このまま行けば、子供さえ得られるなら、手段は何でも良い事になってしまう。

 

「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでもよいという事になる。恐ろしくなり、心底悔い改めて、明け渡した。その時に、心に平安が満ち渡った。しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、何かを得るための、手段にしてしまう。すると、すべてが的はずれになる。

 

自分の自己実現の手段、喜びを得る手段、問題解決の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りでない時に、必ずつまずいて、主から離れる事になる。何かを与えられようと、与えられまいと、主ご自身を信じて生きる事、主を喜び、主を礼拝して生きる事、これが私たちの生きる目的だ。

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主と共にある生活には喜びもあれば、主と共に苦しむこともある。自分にとって喜こばしいものだけでなく、主ご自身を喜び、心から礼拝して生きていきたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係