ダビデは、バテシバとの姦淫とバテシバの夫ウリヤ殺害の罪をずっと隠ぺいしていた。しかし、神から遣わされた預言者ナタンの指摘により、それらの罪を認め、悔い改めた。主は罪を赦して下さった。しかし「あなたはこの事によって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われた。
そして主が打たれたので、子供は病気になった。するとダビデは断食をして、全身全霊で子供のために、祈りに祈った。しかしその子は死んでしまった。家来たちはダビデを余りにも心配して、子供の死を伝えられなかったほどだ。それほどのダビデが、息子の死を知った時、起きあがり、身を整えて、神を礼拝したのだ。
ダビデの驚くべき姿勢だ。自分はこれだけ祈ったのに、なぜ神は聞かれないのかと、不平不満、怒りを爆発させたり、又、失望落胆に落ち込む事もできた。しかしダビデはそうしなかった。どんなにかつらく、悲しく、苦しく、心痛んだ事だろう。しかし力を尽くして祈った結果、こうなった時、これが神の御心である事を受け入れた。
そして神を崇め、礼拝した。ダビデの信仰だった。神の聖なる御心を受け入れる事は、時に裂かれるような痛みを伴う。しかし、神は聖い方であられ、同時に愛なる方だ。必ず神のなさる事は最善だ。ダビデはそれを信じていた。今、受け取るべき御心があれば、受け入れられるよう、主の助けを求めて祈ろう。
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罪は主の血潮により赦され、二度と思い出さないと言われている。しかし自らが蒔いたものは、刈り取る事になる。だが主と共に刈り取る時、それをも万事益として下さる。何というあわれみだろう。主のあわれみは尽きない。受け止めて行けるよう祈ろう。