「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16

二人の弟子たちが、主が十字架で死んでしまわれたので、なすすべなくエルサレムから、郷里に帰ろうとしていた。彼らは「暗い顔つき」であり、力なく歩いていた。この方は「行いにも言葉にも力ある預言者」で、贖い主だと「望みをかけていた」が、だめだった。

 

失望落胆、無力感におおわれていた。そんな時、主が近づいて、彼らのかたわらを歩かれた。そしてその話は何の事かと、問われる。だが彼らには、主だとわからない。なぜ、わからなかったのだろう。主が「預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」と言われ、原因は「不信仰」だった。

 

彼らは何度も主から十字架の死とよみがえりを聞いていたが、信じてはいなかった。主はローマ帝国をくつがえし、王となるとの、強い思いが御言葉をさえぎっていたからだ。私たちはどうだろう。形は違うが、しばしば主が見えなくなってしまう。

 

ある主婦の証しだ。朝の片づけ時に、牛乳パックを倒して、台所は台無しになった。山積みの家事も控え、朝からうんざりで、気持ちが萎え、暗くなった。目の前の事だけで、主が飛んでいた。しかしふっと我に返り、いやそうではない、すべての事は感謝であるはず。

 

「主よ、この事も感謝します」と見上げると、心が変わり、主への期待で軽くなった。そして主と共に、台所の拭き掃除と共に片づけもでき、普段から掃除しなきゃとストレスの台所がすっかり綺麗になった。ストレスから解放され、朝から喜びが湧いた。

 

肉の目には平凡にしか見えない毎日に、信仰を持って見上げる時に、毎日が、生きておられる主への喜びと感謝に変えられる。

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与えられている恵みを精いっぱい感謝しよう。心が主に向き新たにされる。目が遮られている時、気づきたい。既に手にしている恵みに感謝だ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係