偏見について教えられる。私たちは青いセロファンを通して、景色を見ると青色に見える。又、赤いセロファンを通して見ると赤色に見える。同じ景色なのだが、違う色に見える。私たちは、無意識にも自分色のセロファンで世界を見ている。自分の偏見と思い込みで見ているなら、幾ら見ても、そのようにしか見えない。
ある人が、聖書の学びを続けていたのだが、幾ら学んでも、よくわからない。聖書を学ぶ事は嫌でなく、拒否反応があるわけでも無いが、わからなかった。そんな時、種蒔きのたとえを聞き、自分は道ばたの土地だと思った。偏見や自分の強い思い、価値観があり、それが固くて、種を弾いてしまって、心に入れないのだと。
培われたこの世の価値観や、進化論や諸々・・。それで、もうそれはそれとして、一旦横において、聖書はどう言っているのかを聞く事にした。祈ってそれを続けていた時に、不思議が起きた。御言葉が心に響いて来るのだ。あんなにわからなかったのに、心にすんなりと受け止める事ができて、主に出会う事ができた。
自分の偏見や思い込みは、すでにそれが前提になっているので、なかなか気づきにくい。しかし自分はどうだろうとへりくだって、顧みる時に御霊が気づきを与えて下さる。良質の種である御言葉はあるのだが、土地が固ければ、種が植わらず、結実が望めない。気づきから成長は始まる。
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日々の通読も、するすると流してしまう御言葉には、何か心に入れようとしない固い土が弾き返しているのかもしれない。出来ないなら、主よ私には出来ませんと祈れる。御言葉に素直に向き合いたい。