「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす」ホセア8:12

主はイスラエルの人々ために、多くの教えを与えられたが、彼らはそれを他国人のものとみなした、と言っている。主は語りかけられるのだが、他人事、よそ事として聞き、決して自分たちへ向けたものとは受け取らなかった。

 

つまり自分とは無関係な事なので、御言葉がとどまらず、通り過ぎてしまう。私たちはどうだろう。礼拝でメッセージを聞く時、又、個人で御言葉を読む時、他人事として聞いていないだろうか。自分の事として聞かなければ、無意味な事を学び、頭ではよくわかるのだが、右から左へと流れ去っているだろうか。

 

傍観者であるなら、心に留まらない。御言葉が心に刺さることも、根づく事もない。又、自分には当てはめないが、他人に当てはめて、あの人に、この人にピッタリだと。あの人、この人にと。しかし御言葉をそのように聞くべきではない。ただただ、自分の事として聞くべきだ。

 

御言葉の物差しを人に向けてしまうと、いつしか裁きとなってしまう。私たちは、日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもののように聞いていないか振り返ってみよう。礼拝メッセージを、御言葉を、自分自身に、自分の生活にしっかりと当てはめよう。適用しよう。

 

御言葉は光として、心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿を映し出す。心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、罪の指摘や矯正がある。そして聞くだけでなく、従って行く時に初めて、自分が変えられる。一歩一歩成長して行ける。ますます主を知って行ける。

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苦手で流していた聖書箇所が、今になって自分のための御言葉だったと気づく。出来ません、今はそう思えませんと祈る事は出来たのではないか。御言葉を丁寧に受けとろう。いつまでも学びたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係