「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです」ガラテヤ5:2

「もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです」ガラテヤ5:2。私たちが新生し、新しい性質は、主を喜び、主に従い、御言葉に従おうとする。しかしその時に、衝突し、あらがって来るものがある。古い性質だ。それは生まれつきの思い、この世の価値観や、習慣、考え方だ。一見、非常に妥当に見え、常識的に見える。

 

 

 

今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自力で一生懸命に歯をくいしばって、頑張るのが善であり、良い、美徳だ。そのため主を信じ救われて、まことの主に向き合うや、これまで以上に真面目でなければと、信仰生活とは厳しい修業のように思ってしまう。

 

 

 

自力で従うなら、苦しいだけだ。しかし苦労は美徳、苦しいのは当然との価値観もある。これら世の価値観から来ている。しかし、それらは真理と正反対に向かっている。それは主から出ていない。ここでは割礼が問題になっている。割礼によって義と認められようとするなら、恵みから落ちてしまっていると。

 

 

 

何かをする事により、主に認められようとする事は、もはや恵みではない。真理から逸脱し、キリストから離れてしまっていると。信仰生活は、主に受け入れてもらうための修業でない。主を信じた事により、すでに受け入れられている。100%の愛を受けているゆえに、感謝して喜んで、自由意志で主に従って行く。

 

 

 

「ねばならない」義務はいっさいなく、「愛によって働く信仰」愛が動機であり、自発的な自由意志で仕えて行くものだ。そこには主と一つに生きる喜びと平安がある。今、重荷に感じ、疲れて心が重いなら、主のもとに行こう。主が休ませて下さる。

 

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自分で頑張るなら、今日は出来ても明日は出来ないだろう。自分の行いの足りなさを嘆いているなら、キリストの十字架の恵みに立ち返ろう。主のご愛と、あわれみにいつも支えられている。

 

 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係