「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30

バプテスマのヨハネの弟子は、今まで自分たちの師であるヨハネに向いていた、人々の支持と人気が、主イエスに向かうのを見た。弟子たちは師を思う余り、それをひどく妬んだ。しかし、ヨハネ本人は違った。「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と、すべての主権が主にあることを受け入れ、認めていた。

 

主に従い、主が天から下さるものを受けるだけだと。他の人に更に大きな人気と関心が集まるなら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事ではない。ヨハネは自分に与えられた立場、場所、位置、能力をわきまえて、すべてに満足していた。ヨハネはへりくだった人であった。

 

人は、他人の悲しみにもらい泣きはするが、もらい喜びは出来ないと言われている。人の悲しみに同情する事はできても、それほど、人の喜びを共有する事は難しい、出来ない事だと。同僚が自分を差し置いて、先に昇進して行く時どうだろう。友人が入試に合格、自分は不合格の時、人が評価を受け、ほめられる時、友人が幸せ一杯にしている時、そんな時、表には出さずとも、心には羨望と妬みが渦巻き、心がザラつくだろうか。

 

原因は、人との比較に生きているからだと。比較の先は、必ず優越感か劣等感だ。劣等感があるから、優越感に浸りたい。そして優越感の底には劣等感がある。比較から妬みが生じる。ヨハネは天だけを見ていた。だから満足と平安があった。

 

横を見ている限り、あの人は、この人は、と比較の世界だ。目を天に向けて、行く所どこにおいても主を認めて、受け止めて行けるよう祈ろう。そうすればどのような中でも、主が平安を下さる。

 

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視点を主に向けられるよう祈っていよう。平安が失せる時は、主が飛んで、主以外のものを見ている。思い通りでない状況も、主から来ていて、主が決められた事と、受け入れる時に不思議な平安を経験する。そして又、状況も導かれて行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係