主に従うためには、従おうとの意識的な「選択」が必要だ。詩篇記者は、自分の足を主のさとしの方へ「向けた」と言っている。オートマチックではない。没人格、没個性なのではない。ひとりでに、勝手に従って行けるのではない。放っておくなら、肉の方に傾き、楽な方へ、安易な方へと流されてしまう。
意識して、サタンの誘惑を拒否し、御霊の導きの方を選び取り、御霊に拠り頼んで行く必要がある。操り人形のように、主が、私たちを操って従わされるのではない。それなら意志のない人形であり、ロボットだ。主はいっさいマインドコントロールされない。主が、私たちの意志を無視して、代わりに何かをされる事はない。
詩編記者は自分の道を顧みた。私たちはどうだろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは大切だ。日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりから離れているだろうか。主の示しをなおざりに、ないがしろにし、引き延ばし、ぐずぐずしている状態だろうか。
主のさとしの方へ「足を向け」る事が大事だ。祈っただけでなく、祈った後、立ち上がり、実際に行動する事が求められる。今、主の御心に自分の足を向け、具体的に従うように導かれているなら、実行しよう。
「急いで、ためらわずに、仰せを守った」とあるように、ぐずぐずしていると、必ずできなくなってしまう。今、示されている事があるなら、急いで、実行しよう。意志を向けて選択するなら、力は主から来る。
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まず祈りは大切だ。しかし、主はゲッセマネの園で、充分祈られた後、「立ちなさい。さあ、行くのです。」と御心を行うべく立ち上がり、進まれた。御心を示されたなら、「急いで」、「ためらわず」実行しよう。そう出来るよう祈ろう。