「あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことができない」ヨシュア7:13 

ヨシュア率いる民がヨルダン川を、主の奇跡により渡った。目の前に立ちはだかるエリコの城壁をも、主に従って行動すると、主が見事に崩された。一方的な主のみわざだった。そして次にヨシュアはアイへ、偵察隊を遣わした。すると彼らは「二、三千人で大丈夫」と戻った。

 

そこでヨシュアは、三千人を戦いに出したところ、何と敗北したのだった。驚くべき想定外の事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を疑わなかっただけに、衝撃であり、大きな動揺だった。

 

奇跡のヨルダン渡渉、奇跡のエリコ城壁崩壊は、大いなる神が共におられる証拠であり、その事がヨシュアの拠って立つところだった。そのため敗北の事実そのものが、それらをなし崩しにしてしまう。主の御名はどうなるのか。周囲の敵の前で、この敗北はどうなるのか。敵は主の御名も、ヨシュアたちも、もう何ら恐れる対象では無くなってしまう。

 

ヨシュアは、この深刻な重大な事態に「なぜですか」とひれ伏し祈った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかし「大いなる御名」こそが、この敗北を与えられたのであった。全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえに、罪のあるところに働かれない。

 

聖く無い所では、敗北の方が、神の栄光が現れる事になる。妨げは神の側ではなく、民の側にあった。神は罪を照らし出し、示し出され、アカンの罪が発覚した。罪は主との仕切りとなる。すぐ主のもとへ行き、告白しよう。罪に真実に対応した時に、主は勝利を与えられた。

 

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私たちが御心をそれる時、主は、前進を止め、大いなる痛手を与えられる。考えさせられ、祈らされる。主のお心はどこにあるのかと。そんな時は、主に問い、御心を尋ね求めよう。真剣に求める時、主は示し、回復させて下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係