原理と言うのは、法則だ。この世界に様々な法則があるが、法則とは、一つの例外も無く当てはまる事だ。一つでも例外があるなら法則とは言わない。聖書は、私たちの中に一つの法則があると言っている。「善をしたいと願うのに、悪が宿っているという原理」だ。
パウロは主に出会い、新生したので、善をしたい願いがあった。信仰者には、新生する以前には無い、新しい性質があり、主に喜ばれ、主の御心に歩みたいとの願いがある。主を求め、主に従いたいと願う。同様に私たちも、主に喜ばれる事をしたい。だが、それに逆行する法則が存在する。
「悪が宿っているという原理を見いだす」。罪の性質がある。どんなに物を上に投げても、引力の法則で、必ず下に落ちる。法則があるからだ。善をしようとしても、悪を行ってしまう。どうにもならない。自力で善行を少しはするが、必ず落下する。どんなにあがいても主に従えない。
それを徹底して経験したパウロは「私は惨めな人間」だと。「誰がこの死のからだから救い出してくれるのか」と叫んだ。「誰が」とあり、自力では不可能だと悟った。落ちるばかりだ。主を仰いだ時、解決を見た。主が、別の原理によって解決を備えて下さっていた。
「命の御霊の原理」だ。引力の法則で、物は下に落ちるが、手で受けると落ちない。御霊の力により導かれる時に、落下せずに、生き生きと喜んで、自由に主に従って行ける。自分を明け渡し、御霊によって歩めるよう、祈ろう。
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自分の現状は少しも変わらなくても、ただ主の十字架に繋がっているだけで命と御霊の原理が及んでくる。どんな不完全さも神が忍耐をもって赦してくださる。何という慰めか。御霊に明け渡そう。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係