「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:39

ある人の証しだ。多忙な日々だった。仕事は忙しく、心身共に疲れ果てて消耗してしまう。夜勤もあり、身体の疲労も激しい。生活自体が不規則だった。夜勤が続くと、朝帰宅し、夕方まで眠る。すぐに出勤時刻になる。聖書を読み、祈る事は一応欠かさず行い、教会の奉仕もしていた。

 

そんな中、事故で入院となった。けがは治療を受け、大した事なく感謝であった。ゆっくりした時間の中で、初めて我に返れた。十分に主と交わる中で、今までずっと流されていた事に気づかされた。デボーションも毎日するが、形だけだった。奉仕も習慣的になっていた。

 

外側は一応整うので、全く気づかなかった。自分はマルタだった。仕事上ではイライラピリピリしていた。思い煩いや不満、妬み、腹立ち、様々な思いも、主のもとへ持って行き、主との交わりの中で解決して行く事がなかった。忙しさの中で、立ち止まる時間も、考える時間もなく、流されて突き進んでいた。

 

事故も主からであり、立ち止まらせられた事に、心から感謝した。祈りや聖書を読む事が全くしないなら、わかりやすく、自分でも自覚できるが、一応形があるだけに、気づけなかった。生活に、潤いや喜びや愛、御霊の実が無かった事も納得できた。

 

じっくりと主と交わり、御言葉を聞く日々に、色々な事が見えて、自らの姿も見せられ、しきり直しでき、軌道修正させられた。容易に、自分は外側の形だけの、信仰生活に陥ってしまう事をも気づかされた。大きな学びだった。

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いろいろな出来事が日々、目の前にやって来るが問題の中にあってもしみじみと喜びがあるのは主との交わりによってではないだろうか。喜びに満ちた信仰生活を送ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係