「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2:6

アダムがエデンの園で罪を選択した結果、罪はプライドの形をとり、人はプライドで生きるようになった。男性は自分の仕事や地位に高いプライド、野心を持ち、母親は子供に夢を託し、子供により自分のプライドを満たそうとする。

 

又、対人関係で、プライドとプライドがぶつかり、トラブルとなり、妬み、憎しみが湧き上がる。ある女性は、同僚に嫌な思いをしていた。会合では、とにかく自分の意見に反対する。何かと自分に攻撃的で、きつい態度で、一応は礼儀正しく応じているが、嫌で嫌でたまらなかった。

 

内心は、カチンと来て、怒りが沸くが、自分はクリスチャンであり、どうすればよいのか。主の御前に行き、祈った。状況も気持ちも祈り、御前に静まっていた。その時に、主の十字架が、主のへりくだりが、迫って来た。神のあり方を捨て、ご自分を無にされて仕えられた。何という事だろう。自分は何ほどの者か。

 

「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」こんな私のために、ご自身を捨てられた。驚くべきことだ。主のへりくだりを示され、確かに相手は理不尽だが、自分も愛の無い冷淡な心を見せられた。よくよく祈り、翌日、仕事上で確かに助けられているので、感謝を告げた。

 

主が働かれ、相手が何か感じた事がわかった。距離が縮められて行き、やがて親しくされた。主のみわざだった。複雑な生い立ちを話してくれた。相手を理解でき、こちらも証しの機会が与えられた。主に従うことの祝福を教えられた。

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どこまで行っても自分の感情が全てで、正しいと感情に支配されてしまう。そんな者のために主は十字架についてくださった。主を仰いでいこう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係