「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです」ピリピ1:20

ヘロデ王がヤコブを殺害した。するとそれがユダヤ人に気に入られたのを見て、次はペテロ殺害に手を伸ばした。ペテロを捕らえ、投獄し処刑しようとした。しかしペテロは、御使いにより、奇跡をもって牢から救い出された。

 

「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と、教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく必死に祈った。その結果ヤコブは処刑され、ペテロは救出された。「なぜ?」と思うだろうか。が、これはヤコブとペテロへの、主のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教により神の栄光を現し、ペテロは更なる宣教の任務により、神の栄光を現す。

 

ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃がれ、戦いの戦士となり・・」ある人々は、驚くべき奇跡により、どんどん大変な勢いで進軍して行った。そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」と殉教して行った。

 

見える結果は異なるが、どちらもが「信仰によって」歩んだ。一人一人に備えられた神のご計画は全く違う。各々に別の使命、召しがある。人は関係無く、主だけを見て、自分に与えられた人生、自らに備えられた御心を歩む事が、一番の喜びであり、そしてそれは神の栄光を現して行く。

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パウロのように大きな働きは出来なくても、置かれている場所で感謝して主と歩もう。どういう場合でもいつものように。信仰によって歩むとき、私の身によって主が崇められるのではないだろうか。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係