「すると、その人は、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう』と言った」使徒8:31

ある人が、人生の大変な苦境にいた。経済的にも立ち行かず、死をも考えるほどの瀬戸際だった。そんな時、買い物に入った店で、レジをしていた時に、背後にかかっていた言葉が目に入った。店主がクリスチャンであり、壁に御言葉の色紙を飾っていたのだった。

 

「神は愛なり」とあった。心に焼き付いて離れなかった。帰宅後も、その言葉が頭から離れず、グルグル回った。「愛?」「神?」「愛って何?」「神とは?」「どういう事なのか?」「神が愛なら、なぜ今、自分はこんな苦しい瀕死の状態なのか」「どこが愛なのか」

 

「おかしいではないか」怒りがこみ上げた。魂が捉えられたように、翌日その人は、店主に怒鳴るように聞きに行った。すると優しく親切に対応してくれた。奥の座敷に上げてくれて、聖書を開いて、その意味を丁寧に話してくれた。そして身の上話を真剣に聞いてくれた。

 

店主の愛情を通して教会に導かれ、主を信じることができた。試練には脱出の道が備えられていて、生活のめどが立ち、苦境からも救われた。別の人も引っ越し先の見知らぬ地で、不安と孤独の中、隣家のクリスチャン夫婦が親切に、ゴミの出し方、病院や店を教え、お茶に招き、神や聖書の事を話してくれた。夫妻の愛を通して、主を知る事となった。

 

救われた私たちは、今度は、誰かの救いのために用いられるなら、どんなに幸いだろう。言葉を通し、生活を通し、様々な方法で、主はあなたを用いて、周囲の人を救いに導かれる。主に自分自身を渡すなら、主は自由に豊かに用いて下さる。

---------------

自分などまだまだと後ろに控えて、与えられることばかりを求めてしまう。誰かに教えられ、祈られてここまで来た。何より主に愛されて来た。今度は誰かの救いに用いてもらおう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係