「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」ヘブル3:19

イスラエルは、主がカナンに導くと約束をもらっていながら、入る事が出来なかった。不信仰のゆえだった。導き入れるとの、主の約束を聞きつつ、信じる事が無かった。「もし御声を聞くならば・・心を頑なにしてはならない」のように、御声を聞くなら信仰をもって受け入れる事が大切だ。

 

語られた御言葉を無視し、ないがしろにするなら、心はそのままでなく、ますます頑なになって行く。私たちはどう聞いているだろう。当時も、主の言葉を聞く人の態度は様々だった。受け入れる人、好奇心だけの人、反発する人、傍観する人・・。又、喜んで聞くが、自我の岩にぶつかると、御言葉を捨てて、自分の思いの方を取るだろうか。

 

そんな心が砕かれる必要がある。頑固な心が砕かれる時、柔和にされる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、主の言葉を、そのまま受け止め、信じて行く事が信仰だ。この世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなものとし、信じる。私たちは、目には見えないが、御言葉を真実なもの、確かなものとする。

 

そして、その語られた御言葉を行ってゆく事が肝心だ。実行して行く時に、初めて御言葉が身につき、そして必ず豊かな実を結んで行く。私たちはどうだろう。ただ聞いて通り過ぎているだけだろうか。心して受け止め、今、目の前の御声に一歩従おう。

 

・・・・・・・・・・・

カナンへの約束を信じずに、荒野で滅んでしまったイスラエル。不信仰は主の言葉を否定し、嘘だという事にしてしまう。不信仰をありのまま認めて、主に助けを求めよう。「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と、子どもが癒やされた父親のように。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係