「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、 ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」 ヨハネ2:11

カナの結婚式で、ぶどう酒が切れた。マリヤはすぐ主に助けを求た。主は答え、水をぶどう酒に変える奇跡をされた。その時、召し使いたちにに、大きな水がめ6ヶに、水を汲ませた。彼らは、ぶどう酒が必要なのに、なぜ水なのか。何の意味があるのか、わからないままだったろう。

 

だが、主が言われた通りに水を汲んだ。何とその水が、最高のぶどう酒に変えられた。世話役や結婚式の出席者たちは、何もわからないまま、知らないまま最高級のぶどう酒を味わい、楽しんだ。しかしそこに神を認める事も、神を知る事も無い。又、神への感謝も無い。

 

しかし弟子たちは違った。それらを見ていた弟子たちは、それが主のみわざだと知ったので、「それで弟子たちはイエスを信じた」。主は日々、私たちの日常で、みわざをされ、働いておられる。だがそこに主を認めなければ、それは偶然、ラッキーで、たまたまそうなったのであり、運が良かっただけで、そこに主を新たに知る喜びも、感動も、感謝する事も無い。

 

私たちはどうだろう。日々、主のご愛や配慮を認める事なく、一つ一つの出来事を当たり前、偶然として、流していれば、世話役や人々と同じだ。今日の日は、主から来ていて、家族が、仕事が与えられていて、環境も主の御手の中だ。当たり前ではなく、主によるものだ。そこに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのように、主を認め、感謝が溢れ、更に主を信頼して行くことになる。

 

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焦点がどこにあるだろう。どん事があろうと、主に焦点があれば、問題は問題でない。見えるところの悩みや、自分や状況に焦点があれば、動揺と混乱、恐れと不安しかない。ずっと主を見ていた弟子たちにならい、言われる通りに水を汲んだ手伝いにならいたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係