「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する」使徒13:22

Ⅱ歴代のアサ王の箇所で、主は、心が主と全く一つになっている人に、御力を現されると出て来る。ここで落胆してしまわないだろうか。とても主と全く一つになどなっていない・・。無理だ・・。罪ばかり犯し、弱い自分・・そんな事は不可能に思えてしまう。 

 

だが、主と一つになるとは、誰しも自分の思い、自分の願い、自分の計画があるが、それを祈りの中で、軌道修正し、主のお心に合わせて行く事だ。自分の方が、変えられて行く事だ。自分の思いでいっぱいだったものを、主のみ思いに沿わせて行く、その時、主の御心を行う者とされる。そしてダビデを通して学べる。

 

ダビデは主から「彼はわたしの心にかなった者」と言われた。主と一つだ。しかしダビデはどうだろう。バテシバとの姦淫、そしてその夫のウリヤ殺害という重罪を犯してしまった。そんなダビデだが、ナタンにより罪を指摘された時に、罪を認めて、悔い改めた。王であるダビデが悔い改めた事は、主の御前でのへりくだりだった。

 

主と一つであるという事は、決して罪を犯さず、完全になるという事ではない。そんな事は誰も不可能だ。弱さゆえに、どうしても罪を犯してしまうが、その罪を認めて、悔い改める時に、主と一つだと言われる。御霊は罪を示して下さる。それは大きな恵みだ。赦されるためだ。悔い改めて、悔い改めて歩もう。

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祈りも悔い改めも、主の御霊に導かれなければ決してできない。いつも主と一つだ。赦しを受け取り、また新しく歩んでいける。なんと感謝な歩みだろう。へりくだり主と共に生きよう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係