「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。 この戦いは主の戦いだ」Ⅰサムエル17:47

聖書には、信仰の戦いが出て来るが、それが人間的に見るなら、意味のわからない、不可解な方法だった。出エジプトのリーダー、モーセは民を導き出したのだが、エジプト軍精鋭部隊の猛追に窮地に陥った。追っ手が迫る中、前は紅海だ。前進も後退も出来ない。その絶体絶命に、主はモーセに、前進せよと命じられた。主が戦うと。モーセと民がエジプト軍と交戦したのではない。

 

又、強固なエリコの城壁を前に、主は不可解な事を言われた。町の周りを6日間は1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。城壁を叩き壊したのでは無かった。その通りにした時に、難攻不落の城壁は崩壊した。

 

又、ダビデは、誰もどうにも出来ない強大な敵巨人ゴリアテを相手に「この戦いは主の戦い」と、剣や槍ではなく、石で打って倒した。彼らが戦いに勝利したのは、神の御声に聞き、神の方法に従ったゆえであった。人の思いでは、そんな事をして何になるとの不可思議な方法だった。

 

しかし主の命令に、その通りに従った時に、大きなみわざが現れた。まさに奇跡が起きた。「主があなたがたのために戦われる」、私たちにも、様々な事態が起きる。その時に、まず自分で動かずに、自分でどうこうせずに、祈って御声に耳を傾け、導きを切に求めよう。

 

主の示しは、時に理解できず、理解を超えることがある。しかし一歩従う時に、目の前の事態が動き、展開して行き、主が戦って下さるとの実際を経験して行く。

 

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「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」と。まず立って動こうとするが、そうでなく、立ち返って静かにすれば救われると。落ち着いて主を信頼せよと。まず静かにしよう。動かず、主に祈り、導きを待とう。そして示された事に、その通りに従おう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係