「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で 一番偉い人です」マタイ18:4

弟子たちが、主に「天の御国では、だれが一番偉いのか」と質問をした。彼らは、どんな答えを描いていたのだろう。世の価値観なら、最も功績のある人、最も能力のある人、最も善行を積んだ人、秀でたものを持つトップに立つ人だろうか。しかしその時に、主は小さい子どもを呼び寄せられた。

 

そして子どものようにならない限り、決して天の御国に入れないと。子どものように、自分を低くする者が一番偉いのだと言われた。意外だったろうか。何も出来ない子どもが一番偉いと。子供の一番の特徴は無力だ。そして子どもは、自分が無力な存在だと知っている。親無しには、生きて行けず、食べる事もできない事を知っている。

 

親に頼りきっている。だが大人は、自分で生きて行けるし、自分の力で何でも出来ると思っている。又、弟子たちは、内心自分が一番でありたいと思っていた。一番の重要人物でありたい。一番が良いとの価値観だ。弟子たちのそんな考え方を「あなたがたも悔い改めて、子どものようにならない限り、御国に入れない」と言われた。

 

価値観、考え方自体が問題で、「悔い改め」とは向きを変える事であり、方向変換せよと。子どものようになるとは、自らの無力を認め、自分を低くする事、へりくだる事だ。実は自らの無力を知る事、弱さを知る事こそが、最大の恵みだ。無力を知る人だけが、主に頼る。子どもが、完全に親に頼りきって、心底平安でいるように、私たちは、主に頼りきる時に、不安は消えて、平安に包まれる。

 

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子どもも、大人も罪を持って生まれている。だが、子どもは無力で、親に頼りきっている。親がおれば、平安だ。赤ん坊は、親の腕の中で、心底安らかだ。「我は幼子、我、主にすがらん。小さくあれど、信仰抱きて・・静けき昼も、風吹く夜も」主に信頼して歩みたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係