「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Ⅱサムエル12:23

ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯し、隠ぺいしていたが、ナタンに指摘され、悔い改めた。そしてその罪は完全に赦された。しかし自分の蒔いたものは、必ず刈り取ることになる。敵を大いに侮らせたので、生まれる子は必ず死ぬと言われた。バテシバとの間にできた子どもが病気になった。

 

ダビデは断食して祈り、伏して主に願い続けたが、叶わなかった。7日目に子どもは死んだ。生きている時ですら、王の悲痛ぶりに、周囲は死を知らせる事を恐れた。普通ならどんなに痛み、悲しみに沈み、失望落胆する事だろう。しかしダビデは違った。

 

我が子の死を知ったダビデは、身体を洗い、着物を着替え、主の宮に行き、主に礼拝を献げたのだ。そして、帰宅し、食事をとった。家来たちは驚いた。子供が生きている間は断食をして泣いて祈ったのに、亡くなると、起き上がり食事をするとは。ダビデが、断食して祈ったのは、あるいは、もしかすると主のあわれみで、助かるかも知れないと思ったからだった。

 

 

だが死んだならもう呼び戻せない。このダビデに学ぶ事が出来る。自分の願いは願いとして主に熱心に祈るべきだ。しかしもし、その願いが、主の御心で無いなら、「ノー」の答えとして、受け入れる事だ。ダビデは主からの「ノー」を受け入れた。

 

時にどんなに強い願いであっても、主の御心とは異なる事がある。「ノー」の答えは、嬉しくないし、痛い。しかし私たちへの最善の答えだ。受け入れられないなら、そう出来るよう祈ろう。主は祈りに答えて、必ず助けて下さる。

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ノーの答えは主からの答えと徹底して信頼しきっているダビデの姿に学ばされる。今は悲しくても、それ以外の答えはあり得なかったのだ。主からの答えを心静かに受け取り、立ち上がりたい。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係